フレグランスと私
リレーインタビュー<ヤマダアトマイザー>

- 今回はヤマダアトマイザー相談役でいらっしゃる荒原さんもインタビューにご参加いただきありがとうございます。お二人の香水にまつわる最初の記憶はどのようなものでしょうか?
山田さん:昔は三面鏡の鏡台に香水瓶が置かれている光景がよくみられましたが、私達の母親も同じように香水に触れていたと記憶しています。
荒原さん:私は模様の入った薄紙やちり紙に香りづけされた商品を友人同士で交換したりと、幼稚園児時代から香りに馴染んでいました。それから大きくなるにつれて、香水が置かれているお店では片っ端から香りを嗅いでみたりもしましたね。日本では香水が今よりも貴重な高級品として大切に扱われていて、子供向けの雑誌の付録にも香りものが多かったんです。その当時は、小中学生が香水を意識するきっかけが現在よりも多かったように思います。
- では山田さんは幼少期から香水に興味があり、家業を継がれていたのでしょうか?
山田さん:私は高校卒業後に、思わぬ切っ掛けから原宿の表参道でアクセサリーを売る露天商を始めてしまいました。そこでの経験はお客様商売の良い経験になりました。
その後は大学には進学せずコンピュータの専門学校に入学し専門職で商社に入社致しましたが、原宿で露店をやっていた時と、商社に勤めていた時では全然給料が違って、原宿で自由にやっていた時の方がお金が良かったんです(笑)。その頃に家の仕事をしてくれと言われ、家業に入って今に至ります。今思い返すと、当時は何を作っても売れる時代でしたね。
- 何を作っても、というのはどんなデザインのものでもということでしょうか?
山田さん:1958年創業当時は、ガラス製品の輸出がさかんでした。スプレー付ガラス容器は<香水吹き>と呼ばれ、可愛い物が多いということでヨーロッパ人に好評だったのです。家業を継いだ当時でも、まだとても需要が多くて毎日仕事が終わらないくらいでした。
荒原さん:昭和60年前後に世の中の景気が悪くなってしまった時にも、500円でガラスのアトマイザーをほぼ独占的に売っていたので、取引先の方や配達に来られる方にも、こんなに景気の影響を受けないのはヤマダアトマイザーさんくらいだよと言われる程でした。
- 当時そのようなシンプルな筒状のデザインのアトマイザーは他に無かったのでしょうか?
山田さん:昭和50年くらいに今のような筒状のシンプルなデザインで小さいアトマイザーを作るようになりましたが、当時は無かったですね。それまでのアトマイザーは、製品以上の価格だったりもするような高級なものが多かったです。
- そこでの勝因は何だったと感じていますか?
山田さん:やはりワンコインで販売していたことですね。ゴージャスなものよりも、可愛いデザインのアトマイザーを生産してファンシーショップに卸すことが成功の鍵だったように思います。それだけ香水を使っている人も多かったというのもありますが、大人が使うものだった香水を、若い人たちの手の届くようにしたという感覚があります。
- バブル期も花開いたと思いますが、その後変化もありましたか?
山田さん:少子化にも伴ってか、不景気のあおりで5年前くらいは少し落ちてしまいましたが、再び上昇に向かっています。香水を販売する際に、持ち歩き用としてアトマイザーを紹介してくださったことで大きく変化がありました。

- 今後の展望を教えてください。
山田さん:フレグランスをアトマイザーに詰め替えて、もっと気軽にフレグランスを使用する人が増え、香水全体の売り上げに繋がるのではないかと考えています。
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芳香ペンダント 脳の海馬というところには昔の記憶を取り出す鍵穴があり、それを開くキーは「香り」という説が有ります。そこで、認知症予防や創作活動の補助として香り商材が広まっています。 |
山田 雅昭 (やまだ まさあき)
株式会社ヤマダアトマイザー 代表取締役
ヤマダアトマイザーは、1958年創業の世界的にも非常に珍しいアトマイザーの専門メーカーです。
現在MIKADOブランドのオリジナルアトマイザーをはじめ、お客様の御注文に合わせたOEM・特注品・部材の供給を行っております。
弊社は安心して使用出来、使い勝手の良い製品を作る為に、オリジナルアトマイザーは全て日本製の部品を使用し、自社製造をしております。
また、コストメリットと短納期の要望にお応えすべくOEM・特注品・部材につきましては、海外製の商材も多く取り扱っております。