スペシャルセミナー

第9回 スペシャルセミナーレポート

「香りを感じる嗅覚のしくみ」

~東原和成氏がにおいのメカニズムを講演~

2011年8月25日、第9回スペシャルセミナーを
開催しました。講師に東京大学大学院農学生命科学研究科
応用生命化学専攻生物化学研究室の東原和成教授をお招きし、「香りを感じる嗅覚の仕組み」をテーマに嗅覚のメカニズムや利用法について語っていただきました。

嗅覚は五感の中でもホットな研究領域

人間社会では視覚と聴覚が重要視され、嗅覚はあまり好まれない傾向があります。そのため、サイエンスの世界では視覚と聴覚の研究が進められてきたのです。嗅覚を「しゅうかく」と呼ぶ人さえいたといいます。
しかしながら、嗅覚は人間以外の動物では、なくては生きていけない大切な感覚であり、この10~20年で研究が進みました。今や嗅覚に関する研究は五感の中でもホットな領域と位置づけられています。

シャネルは「最も神秘的で人間的であるもの、それはにおいである」としています。
「シャネルNo.5」は一般的には心地よくないと言われているアルデヒドを大量に使用した初の香水であり、センセーショナルを引き起こしました。
これ以降、香水にアルデヒドなどそんなに芳しくもないにおいが使われるようになったのです。

におい物質とは炭素、水素、窒素、硫黄などから成る分子であり、分子量300以下の揮発性低分子で、数十万種類あると言われています。ちなみに、ジャスミンの精油には150種類、コーヒーやワインには500種類以上のにおい物質が含まれています。20~30年前の測定では種類が1ケタ低かったことを踏まえると、分析技術が進めばその種類はさらに増えていくだろうと言われています。コーヒーの香りはそのうちの数十種類がメインになりますが、その数十種類を混ぜ合わせても完全にはコーヒーの香りにはならないから不思議です。

香気の分析にはガスクロマトグラフィーを使います。ガスクロマトグラフィーの開発により、キーとなるにおい物質がわかるようになり、においの再構成ができるようになりました。
においの好き嫌いはその人のライフスタイルや価値観に左右されることがあります。また、においが美味しさに大きく寄与します。フレーバーは食品が持っている香りをつけているものであり、食物の香りは自然な香りです。
一般的には合成香料を香料と捉える人が多いようです。

嗅覚神経細胞は生涯再生が続く

では、においを感じるメカニズムはどのようになっているのでしょうか。
においは嗅神経細胞がある嗅上皮(鼻腔の天蓋、鼻中隔と上鼻甲介の間にある粘膜の部分)で感知されます。実はヒトの嗅上皮は鼻腔の奥にあり、面積が小さいのでネズミやイヌなどの動物と比べると解剖学的には退化して小さくなっています。イヌは人の40倍の面積の嗅上皮があります。ヒトは二足歩行で直立するため、鼻がへこんで嗅上皮が奥の方に行って退化したと言われています。

しかしながら、ヒトは他の動物には出来ない技を持っています。鼻と喉、両方から香り(におい)を嗅げる、つまり喉ごしから上がってくる香りを感じることが出来るのです。ヒトは気道と食道が交差しているため食べ物を呑み込んだあと、喉ごしから香りが入ってきます。そして、鼻に香りが抜けていくからこそ、おいしさを感じとる事ができるのです。鼻をつまんで食べたら味は感じません。つまり、おいしさにとって香りはとても重要な存在であり、ヒトは贅沢な香りの使い方をするように進化したとも言えるのです。

においは嗅神経細胞で感知されます。脳の神経細胞は18歳以降は減少し、再生することはありませんが、嗅神経細胞は年齢に関係なく数週間から3カ月の周期で生涯生まれ変わり、加齢による衰えもあまりありません。
よって高齢者でもにおいを感じることが出来るのです。

嗅覚受容体がにおい物質をセンシング

1991年、リンダ・B・バックとリチャード・アクセルによって嗅覚受容体が発見されました。
この研究により2人は2004年ノーベル生理学・医学賞を受賞することになります。

ヒトには約400種類の嗅覚受容体があり、沢山の種類のにおい物質をセンシングすることができます。ちなみにネズミは1,000種類、カエルは400種類の嗅覚受容体を持っています。多くのにおい物質をセンシングするために多くの受け手が必要になるのです。イルカや鯨など海に戻ったほ乳類は、嗅覚受容体遺伝子は失われています。音でコミュニケーションを取るために、においを使わなくなったためと言われています。どのような環境でどの感覚をコミュニケーションで使うかによって嗅覚受容体遺伝子の分子進化に対して選択圧がかかるのです。

一方、味覚は5味ありますが、甘味は1種、うまみは1種、苦みは25種、酸味は1~2種しか受容体がありません。嗅覚の感度は味覚より百倍~百万倍も感度が高いのです。
それぞれのにおい物質の受容体が認識するにおいのレパートリーは異なります。それぞれの受容体は複数の共通の構造を持っているにおい物質を認識するだけでなく、ひとつひとつのにおい物質は複数の受容体で認識されます。
計算上は2の400乗種類の組み合わせがあります。においと嗅覚受容体は鍵と鍵穴の関係にあり、沢山のにおいがその組み合わせで区別されます。濃度の差も嗅覚で区別出来るのです。

においの信号は、においのイメージができる脳皮質、ホルモン系を左右する視床下部や扁桃体、においの記憶に関わる海馬に伝わっていきます。ヒトの脳におけるにおいに対する活動パターンは心理的効果や情報による効果も大きいので、においだけのシグナルをみるのは難しいです。

においの感じ方には個人差・男女差があり、その好き嫌いは気持ち次第で変わります。
男性のワキから多く分泌されるアンドロステノンの嗅盲率は約6%です。遺伝によるものとされ、このにおい物質は受容体が少ないため、嗅ぎ取れないケースが多いそうです。男女で感じ方が異なるだけでなく、ひとりひとりでも異なります。

ヒトはにおいで季節や心地よさを感じる

鼻の感覚はとても早いペースで進化しており、原始人は現代人と比べてかなり異なる感覚を持っていたはずです。
植物もにおいによるコミュニケーションをします。例えば、ダニによる食害を受けるとダニの天敵を誘引するにおいを出します。また、そのにおいをうけとった食害を受けていない植物もそのにおいを出すようになります。植物は動けないこともあり、互いににおいで会話をしているのです。

においに関連した物質にフェロモンがあります。フェロモンとは同種の他個体に特定の本能的な行動を誘発する物質です。生後間もないウサギは目が見えませんが、母親の乳首を見つけるため母乳に含まれるフェロモンには反応し、口を開けます。蚕の場合は雌が出すフェロモンに雄が反応して近寄って交尾します。小石川植物園に世界最大級の花が咲いて話題になりました。この花はとても臭いにおいを出してハエを引き寄せて受粉します。
生命を維持するためににおいを使っているのです。

しかしヒトが起こす行動は後天的に学習をしたものであり、フェロモンによるものではありません。女子寮で性周期が同調する「女子寮効果」など、様々な研究事例はありますが、フェロモンによるものという結論には至っていません。
体調や病状によってにおいも変化します。これは生きている証拠でもあります。加齢臭として知られる2-ノネナールは脂肪酸が酸化したものであり、40代以降の男女にみられます。ポマードに含まれるヒマシ油も同じようなにおいがしますが、好きな人と嫌いな人に別れます。

においはとても不思議な力を持っています。
ヒトは色々な形でにおいに影響されており、東原さんはその不思議な力に引きつけられたと言います。においを通じておいしさや季節、心地よさを感じるのはヒト特有の使い方です。
まさに「嗅覚礼賛」と言えるでしょう。

東原和成氏の来歴

1989年
東京大学農学部農芸化学科 卒業
1993年
ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校化学科博士課程修了(Ph.D.)
その後、デューク大学医学部博士研究員、東京大学医学部脳研究施設助手、
神戸大学バイオシグナル研究センター助手を歴任
1999年
東京大学大学院新領域創成科学研究科・助教授
2009年
東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻生物化学研究室・教授
主な受賞:
国際ライト賞
文部科学大臣表彰若手科学者賞
読売新聞ゴールドメダル
日本学術振興会賞・日本学士院学術奨励賞 他
その他:
TBSラジオ「夢夢エンジン」出演